草食系男子と、肉食系女子って?

皆さん、こんばんは☆ 疾風 遥です。


まだまだコロナが猛威をふるっており、普段自然と外に出れることが、自然と人と会えたことが、ここまで幸せなことだったんだ、と日々感じています。

少しでも早く収束して、そしてコロナで得た在宅のノウハウなどを活かして、さらに生きやすい社会へと変容していければ良いんじゃないのかな、と理想を持っています。


さて、今日の引用記事はこちら。




2月の記事なので少し古いですが、私が抱いていた「草食男子」の持っていたイメージと、さらに社会的にそんなイメージがついてしまっていたのか、と少しがっかりしたことを、思ったままに書きたいと思います。


そもそも、「草食男子」が元来は、

「必ずしも恋愛に縁がないわけではなく、清潔感があり好印象でモテそうにも見えるが、しかし女性にがっつかない男性」のことを指しており、旧来の「男らしさ」や「抑圧的で家父長的なふるまい」からの脱却、という肯定的なニュアンスが含まれていた。

と、本文にある通り、決して悲観的なイメージはなかったように思います。


私は特に、旧来の「男らしさ」や「他者に抑圧的で家長的な振る舞い」をする男性が嫌いですし、恋愛は男が主導権を握るべき、だったりとか、告白は男子からすべき、などといった女性側からの「男らしさ」を求められることにも抵抗を感じます。


もちろん、ここでいう男性、女性というのは、社会的性別について論じているのであって、生物的性別について違いがあることは、もちろん互いに理解すべきですし、尊重し合う必要があると思います。


しかし、ある意味、女性も一種の「女性らしさ」を強要されているとするならば、「女子の私から告白するなんて、ガッツいていると思われないだろうか」と悩む方もいるでしょう。

また、「女らしさ」を武器として、上手に使いこなし、生きている女性もいます。

「女らしさ」を武器にして生きていけるのであれば、それに越したことはないでしょうし、ある意味旧来の「男らしい男性」からのウケも良いことでしょう。

そこには、自分がどう生きるかを選択する自由が、個人単位であるべきだと思います。


しかしそれが、社会的常識という名の抑圧によって生じている「生きづらさ」につながっているのであれば、話は別になっていると思います。

私は、冒頭でも言った通り、旧来の「男らしさ」から自ら脱却し、社会的性別的にジェンダーフリーの考えを構築し、少しでも男性優位の社会を変えていきたいという理想を持っています。

それは、女性に気に入られたいから、ではなく、女性を抑圧する人間になりたくない、という自由意思に基づいています。


引用記事にもあったように、「草食男子」の捉え方が時代を経て変わった今、「モテない男は、恋愛市場にすら上がらせてもらえない」といった雰囲気があるのは感じるところです。

そして、私の場合は、社会的性別としてジェンダーフリーを目指していることを掲げていることから、同性愛者と勘違いをされたり、そもそも恋愛に興味のない人、として見られることがしばしばあります。

しかし、そこは生物的性別は男性ですし、異性愛者ですから、気になる女性がいれば、アプローチもしたいですし、実際にお付き合いに発展することもあるわけですが、「社会的性別のジェンダーフリー」を目指しているのであって、逆に「生物的性別のジェンダーフリー」は生物学上不可能だと思っているので、そこを混同して論じられた時に、違和感を覚えます。

ゆえに、私の理想とする交際は、男性優位でも女性優位でもなく、お互いに話し合い、互いの価値観を尊重しながら、人生を共にするパートナーとして一緒に歩んでいきたい、と思うわけです。


ゆえに、主夫になることに抵抗もないですし、外でバリバリと働きたいと考えている女性を応援したい気持ちもあれば、共働きでお互いにできることをする関係を構築していきたいな、と考えています。

理想論と言われてしまえばその通りなのかもしれませんが、旧来の「男らしさ」や「女らしさ」の強要から脱却するためには、理想(目標)を掲げ、それに賛同してくれるパートナーとともに、ちょっとここは違うかな、とか、こうしたらもっと良いんじゃないか、とか、お互いに意見を出し合いながら、生きやすさを見出していきたいと思っているのです。


だからといって、旧来の「男らしさ」がまさに男だ!と思っている人まで無理にこの価値観を押し付けようとも思っていません。そのような「男らしさ」を持つ男性に惹かれる女性ももちろんいらっしゃるでしょうから、最終的には、カップルの個別の相性の問題になってしまうとは思います。


最後に、私が伝えたいことは、

巷に溢れている「モテ術」であったり、「男らしさ」「女らしさ」を説いたネット記事などを読んで、「こうすれば異性にもてるのか!」と思って、自分を無理に変える必要はないと思う

というところに帰着します。


社会から求められる「男らしさ」「女らしさ」の前に、「自分らしさ」を深く考えて、1人で生きていこうと思う人もいれば、人生を共にするパートナーを見つけて歩んでいきたいと思うのか、何もかも個人の自由であって、社会の偉い方々から、強要されるものではないということをお伝えしたいと思います。


大切なのは、「自分らしさ」を見失わないこと。


でも、「自分らしさ」って、普段から自分と向き合うことをしていないと、周りに流される人になってしまうから。

きっと周りに流されてもいいや、と思っている人は、私の記事など読んでいないと思うからこそ言っているのですが、意外と自分と向き合うと、自分が大切だと思っていたことが社会的抑圧によるものだったと気づいた途端、大切でなくなったり、どうでもよかったことが大切になったり、常に変容していくと思います。

なかなか幼少期から刷り込まれた男女の概念について完璧に取り払うことはほぼ不可能だとは思いますが、少なくとも「それって社会的強要かな?」と一瞬立ち止まって考えられるようになれば、自ずから「自分らしさ」というものが見えてくるのかな、と思います。


先進国の中でも、特に日本はまだまだ男性優位の国です。

でもそれは、一部の「旧来の男らしさ」を誇示している男性によって支配されているからであって、社会全体でみれば、ジェンダーフリー、ジェンダーレスな世界がだんだんと進んできているように思います。


男性が「女らしさ」を持っていたって良いし、

女性が「男らしさ」を持っていても良いのです。

それは、その人の個性だから。

なんでも、男女というたった2つの概念に収めようとせず、個人個人を認め合い、価値観を尊重できる世の中になれば良いなと思っています。


疾風 遥





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