しあわせ、ってなんだろう?

こんばんは、疾風 遥です☆

せっかく昨日調子が良くて、愛車を手洗い洗車したのに、今日の午後に小雨が降って、少しガッカリしてしまいました。

前回の記事で、「外に出れなくなりました」と言いましたが、一歩も外に出れないわけではなく、通所していた場所の空間の広さと人数の比率が、やっぱり人数が多く感じて、そういう人の集まる場所にいけなくなりました、っていう意味です。

また、知り合いと会って数時間話す、なんてことも、移してしまったら、と考えるとネガティブになってできません…。
本当は話したがりなので、1人で家にいるのは退屈なのですが、5日経って、だいぶ「家にいる」ことに慣れてきました☆

そんな中、Twitterにもあげましたが、こんな記事を見つけたのです。



深いですよね。
確かに世間はコロナで持ちきりですが、そもそもコロナの前って安定してたのか、幸せだったのか、って話です。

幸せの尺度っていうのは人それぞれですし、環境や年齢によっても変わる変動的なものだと思っています。


心の安定、という意味では、1年前と比較すればずっと安定しているように感じます。
1年前はまだパニック発作発症から半年足らずで、1週間に1回くらいは何かをキッカケに発作を繰り返していましたし、思い返せばずーっと頭痛がして、頭が重く、何もやる気にならず、何かしても発作以前のように上手くいかず、イライラしていたように記憶しています。

「コロナの脅威」という観点では、確かに世間も私も不安定ですが、「生活の安定」という意味では、世間の皆さんもそれぞれなように、私は今のほうが安定していると思いますし、コロナの流行が1年前だったら、と考えたらそれこそ症状が悪化していたと思うので、まだ良かったんじゃないかとも思えるのです。

また、五味さんがおっしゃるように、「仕事も学校も、ある意味でいま枠組みが崩壊しているから、ふだんの何がつまんなかったのか、本当は何がしたいのか、ニュートラルに問いやすいとき」なのだと、私も思います。

ある意味では、私はコロナに先んじてパニック発作によって、枠組みから脱していた状況だったわけですが、フラットに自分の居心地の良さって一体なんなんだろう?、と考えるチャンスなわけです。

私は居心地の悪いところ(人によってはそうじゃない環境だとしてもね)にいて、我慢にガマンを重ねた結果、自分の居心地を無視し続けた結果、このようにパニック障がいになってしまったわけです。
しようと思えば、その環境のだけのせいにもできますが、実際は私が自分の居心地の良さを追求することを忘れていた、というかそれに気づけなかったから、このような結果になってしまったように思います。

でもそれも決して悪いことでもありません。
去年の秋頃から通所している場所では、様々な障がいを持った方々がいて、私もその1人なわけだけど、自分1人じゃないんだ💡、って思えます。
今までは、学校でも会社でも「遥って考え過ぎなんじゃない?」とか、「感じすぎなんじゃない?」って言われていて、自分の価値観を共有できる場所にいなかった。
けれど、通所を通して、私より考え過ぎなんじゃないか、私より感じ過ぎなんじゃないか、って思うような人がいて、「いたいた、自分に近い人!」って感じで嬉しいわけです。

それはパニック障がいにならなければ、なかった出会いであって、なかった経験であって、一度社会人になると(特にサラリーマンやOLは)その会社の外が見えにくくなるので、こういった経験がこの年でできたのはむしろポジティブなことなんじゃないか、と感じることだってできます。
ありがとう、パニック障がい!
ありがとう、苦手な上司!

こうやって、過去のことを肯定的に捉えられるようになれば、自ずと「今は幸せ」になるのではないでしょうか。


もちろん、これから先、もっと困難なことが待ち構えているのかもしれません。
でもそれは将来の話で、今の自分がどうこう変えることはできないわけです。
それならば、今の自分にとって居心地の良い環境を整えていくことで、困難にぶち当たったときも、その環境に帰ってくることもできるわけですし、一時避難もできるわけです。

ずっと幸せも続かないけど、
ずっと不幸も続かない。

だからこそ、人間は未来に向かって生きていくことができるのかもしれませんね。
今、まだ生き抜いている自分がいるからこそ悩めるわけで、悩めることを贅沢だと思えれば、何事も客観視できて、少し気持ちも楽になるような気がします。

予防はしっかりと。
しかし、過度に心配せずに。
(通所できなくなってる私が言っても説得力ないか笑)



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